第八話 ―泡沫の時間―

 

土曜日。久しぶりに銀八は育て親の家を訪れた。

「いらっしゃい、銀八」

穏やかな笑みを浮かべて、松陽が玄関で出迎えてくれた。
久しぶりの訪問に若干緊張しながら銀八は家へ上がる。
畳貼りの居間に通されると、あぐらを掻いて松陽と向かい合って座った。

「久しぶりですね、銀八」
「ああ、久しぶり……」
「仕事はどうですが?忙しいですか?」
「忙しい時もあるし、そうでもない時もあるよ」
「ふふっ、こうして会いに来てくれるのは本当に久しぶりですね。
 銀八と会えて嬉しいです。せっかく勤務地が近いんですから、
 また一緒にここに住んでくれても私は構わないんですよ、銀八。
 あ、でも銀八にも都合がありますね。こんなおじさんよりも、
  可愛らしい恋人と暮らす方がずっといいですよね。すみません」
「恋人なんていねえよ」
「そうですか?銀八は男前だからモテそうですけどね。
 ともかく、来てくれて嬉しいですよ。今、お茶とお菓子を用意しますから」

松陽が部屋を出ていくと、銀八はごろりと仰向けに寝転がった。
懐かしい部屋の匂いに、心が落ち着いた。

銀八にとって松陽は孤児だった自分を拾ってくれた養父だった。

彼に前世の記憶とやらがあるかどうかは解らないが、
また昔と同じような縁で出会ったことは奇跡的だった。
もっとも、幼いころの自分には前世の記憶などなく、
記憶が蘇りだしたのは思春期頃で、はっきり思い出したのは高校生も
半ばぐらいだったから、その奇跡を有難がる暇などなかったのだが。
松陽に記憶があるかは微妙なところだ。
どうにも何も覚えて無さそうな雰囲気だが、彼は狸だ。
自分の手の裡も感情も見せるような一筋縄でいく男ではない。

まあ、記憶の有無などどうでもいいことだ。
古い縁があろうとなかろうと、松陽が大切な育ての親であることに変わりない。

大学に通うのに一人暮らしを始めて以来はすっかり
この家に帰ることも殆どなく、他人のように暮らしていても、
彼がこの家で生きている事は銀八にとっては大きな支えだった。

感慨に耽っていると、松陽がお茶と菓子を手に戻って来た。
テーブルに緑茶と有名な老舗和菓子店のどら焼きが並べられる。

「どうぞ、銀時」

木のお盆いっぱいに入れられたどら焼きを勧められて、
銀八は遠慮なくこし餡のどら焼きを頬張った。
上品な甘さにしっとりした皮が絶妙な、いかにも高級品という味だ。
松陽は抹茶味の物を手に取り、食べ始めた。

「とても美味しいですね」
「ああ、すげぇうめー。こんな高級品、どうしたんだよ?」

大学にもローンなしで通わせてもらったから本当の所は知らないが、
基本的には松陽は清貧な暮らしぶりで、旅行はしないし車も持っていない。
こんな高級な菓子はよっぽど何かないと買わない。
何かあったのだろうかと怪訝に思った銀八が尋ねると、松陽はニコリと笑んだ。

「そろばんを教えている子にもらったんですよ。沢山ありますから遠慮なく食べなさい」
「マジかよ。どんなボンボンだっつーの。
 こんな高級品、お歳暮の時期でもねえのに持ってくるとかすげぇな。
 ったく、羨ましい限りだぜ。そいつと、そいつの親の顔が見てみたいね」
「はははは」

もとより遠慮する気なんてなかった銀八は、
さっそく二つ目のどら焼きに手を伸ばす。
お菓子を食べ、お茶を飲みながら久しぶりに松陽とゆっくり話した。
子供の頃の話から始まって、話題は今の生活にまで及んだ。

「銀八は優しいし気さくですから、
 きっといい先生で生徒に慕われているでしょうね」
「……」

松陽の言葉に銀八は口を噤んだ。
脳裏を過ぎったのは高杉晋助の悔しそうな泣き出しそうな顔。
自分は優しくないし、慕われてもいない。生徒を縛る酷い教師だ。

後ろ暗さに銀八は無言で俯いた。
松陽はクスリと笑いを漏らすと、銀八のふわふわの頭をそっと撫でる。

「ちょっと、やめてくんない。俺もうイイ大人なんですけど」
「はは。銀八は私から見れば可愛い子供ですよ」
「どういう意味だよ、それ」
「銀八が大人として成長できていないという意味ではありませんよ。
 悪意はありません。ただ、私はいつまでも銀八の親で、先生でありたいんです」
「……」
「甘えていいんですよ。銀八」

胸に飛び込んで来いと言わんばかりに腕を広げる松陽に
銀八は呆気にとられた顔をする。
昔から変わらない養父に、銀八は苦笑した。

「やめろよ、松陽。こっぱずかしいっつーの」
「おや、そうですか。では、君の悩みでも聞きましょう。
 さっき私が言った言葉に対して顔を曇らせましたね。後ろめたい事でもあるんですか?」
「別に、後ろめたいことなんてねえよ」
「そうですか?ふふ、銀八。嘘はいけませんよ」
「……。ちょっとな、ある一人の生徒にえらく嫌われる事をした」
「へえ。嫌いだって言われたんですか?」
「嫌いどころじゃねえよ。殺したいってくらいに思われている」

無理に抑えつけて押し倒した時の高杉の顔を思い出し、銀八は溜息を吐く。
遠い目をする銀八に、穏やかな声で松陽は言った。

「銀八は、その生徒がとても好きなんですね」
「へ?」
「ふふ。君は昔っからそうです。好きな子を苛めてしまう」
「あれ、そんなことあったっけ?」

産まれてから二十八年。好きな子なんてできたことない。
もちろん健全な男だからやることはやっているが、
可愛いとか、やりたいとか思っても、好きになった女なんていない。
心から傍に置いておきたいと、独占したいと思うのは高杉だけだ。

首を捻って銀八が松陽を見ていると、松陽はクスリと笑った。

「銀八。相手は頭が良くて、心を読むのにすぐれていたとしても、
 自分に向けられる気持ちに鈍い子かも知れません。
 それに、プライドの高い子かもしれません。
 上から押さえつけたり、嫌がる事ばかりしていては、誤解されますよ。
 それが時に、離別を招いてしまうかもしれない。時には素直になりなさい」

松陽が言ったすべては、まるきり誰かさんに当てはまる性格だ。
それに、好きな子をいじめるという言葉も引っかかった。
前世、高杉が好きだった自分は、自分の方に注意を向けさせるのに
散々嫌がらせをしたし、喧嘩もしまくった。
そのことで松陽に怒られるとまではいかずとも注意されたこと数知れず。
銀八はやっぱり松陽は昔の記憶があるんじゃないかと疑う。
灰色の瞳をじっと見つめて見たが、相変わらず松陽の心は見えてこない。

「ありがとな、松陽先生。そのこと、肝に銘じておくわ」
「銀八。その子がいつか君の気持ちを分かって、
 君といることを選んでくれるといいですね。応援してますよ」
「応援しなくていいっつーの」

どら焼きを口へ放り込むと、銀八はお茶を一気に飲み干した。

「ごちそうさん。んじゃ、俺そろそろ帰るわ」
「おや、もっとゆっくりしていけばいいのに」
「すまねえ、ちょっと同僚と約束があんだよ」
「そうですか。では仕方がありませんね」

残念そうにしながら、松陽はゆっくりと立ち上がった。
松陽は玄関まで見送りに来てくれた。

「それじゃあ、また」

松陽に背を向けて玄関を開けようとした時、チャイムが鳴った。
三和土に降りようとする松陽を制して、銀八は代わりに玄関を開ける。

「はいはい。どなたー?……って、高杉……」
「ぎ、んぱ……ち」
「おや、晋助。いらっしゃい」

銀八と高杉の間に流れている凍えたような空気に気付かないのか、
松陽はにこやかに笑いながら高杉に声を掛ける。
俯けていた顔を上げた高杉は戸惑ったような表情を浮かべていた。

「おや、二人ともどうしました?顔色が冴えませんよ」
「……松陽先生。俺、今日は帰ります」
「晋助、待ってください。せっかく来てくれたのに
 一言も話せずに帰ってしまうなんて寂しい事を言わないでください。
 この前頂いた、どら焼きのお礼も言いたいですし、上がっていきなさい」

松陽に勧められると断れないらしく、高杉は小さく頷いた。
相も変わらず松陽を慕っている高杉に、銀八は僅かだが嫉妬を覚えた。

それにしても、まさか高杉が松陽の塾生だとは……。
金持ちの生徒が高杉の事などとは夢にも思わなかった。
こんなところで出くわすなんて、本当にばつが悪い。

「じゃあ松陽、俺は帰るわ……」
「銀八。せっかくだから君ももう少し居なさい。
 晋助とは知り合いのようですし、折角だから三人で話しましょう」

そそくさと退散しようとした所を松陽に引き留められてしまった。
松陽は有無を言わさない笑顔でこちらを見ている。
柔和な笑みだが、思い切り帰らせない雰囲気を纏っていた。
別段、これから用事があるわけじゃない。
しょうがなく、銀八も再びお邪魔する事にした。

松陽について廊下を歩く高杉は、普段の学校での
生意気で人を馬鹿にした態度が嘘のように静かでしおらしかった。
まるで借りてきた猫のように大人しい態度だ。

ついさっきまで居た和室に再び戻ってくると、
銀八と高杉は松陽に対面して並んで座った。

「銀八、晋助は三年ほど前からそろばん塾に通ってるんです。
 そろばん以外でもすごく頭がいい子で、将来有望なんですよ」
「だろうな。そいつ、生活態度は最悪でも、
 成績だけはめっぽういいからな。担任だから知ってる」
「ああ、なるほど。銀八の生徒でしたか。ふふ、合縁奇縁ですね」

含み笑いをする松陽に、銀八は疑いの眼差しを向ける。
何もかも知っていて、見透かされているような気がして緊張した。
額に滲む汗を手の甲で拭いつつ、密かに高杉を盗み見る。
高杉も珍しく緊迫したような表情を浮かべていた。

「私はお茶とお菓子を用意してきますから、その間二人はごゆっくり」
「えっ……、ちょ、茶なら俺がたまには淹れっからさ、座ってろよ」
「いえいえ。気持ちだけで十分です。今日は私がおもてなししますよ」
「ちょ、待てって……!」

銀時が引き留めるのも聞かず、松陽は笑いながら襖の向こうに消えた。
他人の家で二人きりという状況に、銀八は溜息を吐きたくなる。
普通に考えれば気をきかせたのだろうが、どうにも悪意に思えてしょうがない。
自分と高杉の間に流れる空気からして、
二人が友好的で健全な教師と生徒の関係などと誰が思うだろうか。
ましてや、そういう事に鋭い松陽ならば、
自分たちが後ろ暗い関係であることなどすぐに見抜けたはずだ。
それを二人きりで置き去りにするなど、悪魔のような男だ。

どうしたものか。気を紛らわそうにも雑誌もテレビもない。
痛いほどの沈黙が肌に全身をチクチクと貫いた。
先にその沈黙を破ったのは高杉だった。

「なあ、銀八……。松陽先生と、どういう関係なんだよ」

呟くように尋ねると、高杉はここへ来て初めて銀八と目を合わせた。
暗緑色の瞳は相変わらず鋭いが、揺らぎのような色が滲んでいた。
不安そうな、怒ったような、そのどちらにも似て、どちらでもない感情。

「どういう関係って、別に。ただの養父だよ」
「……ふうん」

思い切って尋ねてみたという割には、素っ気ない返事だ。
銀八は伺うように高杉の瞳を覗き込んだ。
さっきと違って無感情な瞳からは、まったく思考が読み取れない。
感情を読み取ろうとするのは諦めて、銀八は天井を仰いだ。

高杉は、もしかして恋愛の意味で松陽が好きなのだろうか。
一瞬そんな邪推が脳裏を過ぎった。
もしそうだとしたら、自分とは真逆のタイプだ。勝機は無い。
もっとも松陽が高杉に恋愛感情を抱くなど絶対にないからその点は
安心できるが、つまみ食いくらいならしかねない。

確かめたい。そう思ったけど、聞けなかった。
もし高杉が松陽が好きであろうとなかろうと、どうでもいい。
どんな形であれ、高杉を繋ぐ鎖は自分の手の内に在る。
悲しいかな、年端もいかない高杉にあんな酷い事をした以上は、
これより上等な関係――たとえば恋人同士などという甘い関係が
築けるはずもないし、かといって、弱みを握っている以上、
高杉が誰かを好きになっても自分から離れていく可能性もない。

黙りこくって銀八が考え事をしていると、
高杉がいきなりポツリと銀八に尋ねてきた。

「なあ。どうして俺なんだ?どうして加虐する対象として俺を選んだ?」

まっすぐ銀八を見詰める高杉の瞳は真剣だった。

ふと、銀八は松陽に言われた言葉を思い出した。
“時には素直になりなさい”
そうだ。今、素直に言えばいい。愛しているからだと。
ずっと一緒に居たいのだと、そう言えばいい。

言わないと。そう思えば思う程、言葉は逃げて行く。消えて行く。
結局、「お前が先に俺を盗撮して陥れようとしたんだろ?だからだ」
なんて心にも無い事を答えた。

愛している。そんな言葉を口にはできなかった。
愛情でも優しさでもなく、恐怖と屈辱と言う形で繋ぎとめた自分が、
今更何を言えるのだろう。そう思ったからだ。

「あっそ。……いつになったら、満たされるんだよ?いつ、解放される?」

今度の高杉の問い掛けはまるで独り言のようだった。
答えずにいたが、高杉がその答えを催促して来ることはなかった。
またも、居心地の悪い沈黙が続く。
どうしたものかと思っていた時、ちょうど松陽が戻ってきた。

開いた襖に立つ松陽の姿を見るなり、
さっきまでは無感情で曇ったガラス玉みたいだった高杉の瞳が輝く。
白い頬にほんのりと朱がさして、口許は微かに笑んでいる。

そんなに松陽が好きかよ。
心の中で毒々しく吐き捨てると、銀八はゆっくり立ち上がった。
松陽とはたとえ高杉を巡ってでも戦う気なんてしない。
松陽にだけは、素直に負けを認める事ができた。
松陽と居れば、高杉は昔みたいに足を踏み外すこともないだろう。
嬉しそうな高杉を見ていると嬉しい反面、居た堪れなさも覚える。

銀八は無言で立ち上がると、「用事を思い出した」と告げて二人に背を向けた。
そのまま、銀八は松陽の家を後にした。



ふらふらとした足取りで歩きながら、自宅に向かう。
酔っ払いたい気分だったが、こんな日の高い時間では居酒屋もスナックも開いてない。
自分の家で、一人で酒盛りでもしようと決めて、
スーパーで甘いチューハイやら、苦いビールやらを買い込んだ。

帰路を辿りながら、ふと昨日の高杉が脳裏に浮かぶ。
昨日抱いた時の高杉は、いつもと違った。
不良に襲われかけて助けた後だった所為か、甘えるような仕草を見せたり、
熱っぽい瞳で見上げてきたり、腕を絡めてきたりと
まるで恋人同士になったような気分だった。
だがセックスが終わった瞬間、高杉はまたいつもの
冷めた瞳に戻って逃げ出してしまった。

幻でも見たんだろうか。部屋に一人取り残された銀八はそんな風に思った。
本当は自分だって、こんな形でしか高杉といられないのは嫌だ。
愛し合いたい。でも、愛し合っていた過去も、一つのあやまちで全てを失った。

あの時、自分が選択肢を誤って松陽を殺してしまってから、
高杉は離れて行った。
あんなに互いを大事に思っていたのに、繋いでいた手を離してしまった。
そして結末は自分の手で高杉を殺すと言う最悪のものだった。

だったら、恋人同士じゃなくてもいい。愛じゃなくてもいい。
高杉を繋ぎとめられたらそれでいい。

そう思っていても、いざ家に帰って酒を飲んでみた夢は、
大昔の様に愛し合って求めあう、遠い幻の様な過去の夢だった。












--あとがき----------

今回は銀さんサイドの話です。
銀さんは本当は愛したいと思う反面、
愛では高杉を自分の手元に縛れないんじゃないかと恐れてるので、
屈服させる事を選んだという感じです。
高杉はモテるし、自分は十歳も年上なので、
正攻法じゃ高杉に好きになってもらえないと卑怯な方法で手に入れました。
その事に後悔しつつある銀さんを描いてみたのですが、
なんともとりとめのない文章に(笑)