第七話 布告






台風が近付いて来ている様だ。
空はどんよりと重たく、灰色の分厚い雲が青空を隠していた。
日光が地上へと届かずに日中だと言うのに辺りは薄暗い。
時折、強い雨が地面に降り注ぎ、
止んだかと思えば方向の定まらない粗野な風が木々を揺らす。
普段は賑やかな昼休みの校庭には、人影など見当たらなかった。

そんな悪天候の中、校舎裏の庭で木に凭れ、政宗は煙草を燻らせていた。
風紀委員をしている浅井に見つかったら口煩くどやされるかもしれない。
そうは思ったが、ここ数日の嫌な気分を少しでも軽減しようと、
密かに自宅の小十郎の机の引き出しからくすねた煙草を咥える。

カチリとライターを鳴らし、火を灯す。
中心は蒼く、上部は紅い火が風に揺れて酷く頼りなげに揺れた。

昨日プールで溺れ、保健室で眠っていたかと思えば六限目の途中に
佐助と早退してしまった幸村の事をふと思い出す。

溺れた時、どうしていち早く助けに行けなかったのだろうか。
泳ぎに自信がなかった。そんなことは言い訳に過ぎない。
咄嗟に動けずにいた自分と違い、あの男はすぐにプールへと飛び込んだ。
溺れるかもしれないことなど、頭には毛頭なかっただろう。
あの反応速度には、幸村を大事に思う気持ちが滲んでいた。

これが、昔守って来た者と、敵として戦った者の差なのだろうか。

胸がキリリと痛む。
過去など、前世などてんで覚えていない幸村。
それでよかった。覚えているのが自分だけでも、自分だけが
今でもまだ愛しい気持ちを未練がましく捨てられずにいるのでよかった。
思い出さない方が良い。あんな、薄暗い感情の纏わり付く忌まわしい戦国の記憶など。
覚えていても、幸村が傷付くだけだ。
自分が覚えていて、また巡り合えてそれでよかったんだ。
そう、ずっと思っていた筈だ。
だが、一方でこんな記憶なかった方がよかったとも思っている。
手に入らないと知った時、また、幸村を殺してしまうのではないだろうか。
そう思うと、怖かった。

「矛盾してやがる……」

前世の記憶があるからこそ、こうして愛しい人をまた愛せる。
だが、それと同時に愛することへの恐怖も与えていた。
矛盾に胸が焦がされ、繰り返し苦しい思いをして。
それでも離れる事など出来ずにずっと傍に居続けた。

「奴が、羨ましいぜ―…」

自分と同じ様にいつも幸村の傍に居る男が脳裏に浮かんだ。
黄昏色の髪に萌黄色の瞳。
ずっと幸村を守り続けている男、猿飛佐助。
記憶があるかないかは定かでないが、あの男も今も昔と変わらず幸村を愛していた。
昔は忍としてその本懐を遂げることはできなかったが、
身分の垣根など無い今ではいつだって愛を告げることができる。
主として守ってきた彼は、生まれ変わった今、幸村を愛することに障害など無い。
かつて、その愛しい人を手にかけた自分と違って―…

細く長く息を吐く。紫煙が静かな風に乗って天空へと還ってゆく。
規則的に立ち昇ってゆく煙が不意に不規則に揺れ、散った。
上を見上げると、自分が凭れる木の枝に立ち、こちらを見下ろす男が見えた。
下らないものを見る様な瞳で自分を一瞥するのは、猿飛佐助だった。

目が合った瞬間、嘘臭い笑顔を浮かべて彼は自分の隣りに降り立った。
音も無く、佐助は地面に着地した。

「よっ、奇遇だね〜。こんな所で会うなんてさ」

ひょうひょうとした声で愛想よく手を上げる男を、
胡散臭い物をみるような目で政宗は見た。

「何の用だ?」
「べつに〜。ちょっと昼食後の一服をってね」

ヘラヘラ笑いながら、佐助はポケットから煙草を取り出す。

「火、貸してくんない?忘れてきちゃって」

煙草を咥えて笑う男に、政宗はしょうがなくライターの炎を差し出した。
煙草を咥えたまま着火すると、佐助は煙草の煙を吸い込んで吐き出した。

「あんがとね。俺様、ライター持ってないから助かったぜ」
「別に……。それよりアンタ、煙草なんて吸ってたか?」
「まあね。嫌なことある時だけたまーに。真田の旦那には内緒ね」
「……バレる前にやめな」
「ま、それもそうだね。
 俺様はあんたと違ってニコ中じゃないから何時でもやめられるぜ」
「オレもジャンキーじゃねぇよ」
「そう?ワリときてると思うけどね」

悪びれもせずにそう言うと、ケラケラと不快な乾いた笑い声を佐助があげる。
政宗は冷静を装うとしたが、苛立ちが滲むのを止められなかった。
いつもよりも更に低い声で、威嚇する様に佐助に問い掛ける。

「で、用があんだろ?じゃなきゃ、アンタがわざわざ
 オレに話し掛ける筈がねーだろ?」
「うん、まあそうだね。俺様も回りくどいの好きじゃないから……」

笑っていた佐助の顔が一変し、硬質なものに変わる。
無表情で在りながらも、憎しみや憤怒を感じさせる冷酷な表情。
知っている顔だった。戦国時代、彼がよく見せていた貌。
温厚な佐助しか知らないクラスメイトが見たら驚くだろう。
だが、これこそが、自分の知る猿飛佐助の本性だった。

「単刀直入に言うよ?もう真田幸村に付き纏わないでくれる?」
「……穏やかじゃねぇな」
「穏やかでいられるはずないでしょ。俺様、あんたなんて大っ嫌い」
「オレが真田に告白したの耳に入っちまったみてぇだな」
「そうだよ。俺様と真田の旦那、仲がいいからね」
「Ha!どうせ真田を誘導尋問に掛けて聞きだしたんだろーが。
 相変わらずやることが陰険だぜ。嫌なヤロウだぜ。
 で、そのことが気に喰わないと言いに来たのか?だったら失せな。
 オレが真田をどう思ってようが、想いを告げようが猿にゃ関係ねーだろ」

馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに政宗は大袈裟に肩を竦めた。
それとほぼ同時に、ヒュッと風を切る音が聞こえた。
真横で鈍い音が響いた。
佐助の方に向けていた視線を横に反らすと、風を切り、
自分の頬を掠めていったものが目に入った。

太い幹に深く突き刺さる黒金の苦無。
俄かに過去が蘇り、政宗は眉間に深く皺を寄せた。

「テメェ、何しやがる!」
「……殺されないだけマシだと思えよ」
「What?なんでオレがテメェなんざに殺されなきゃならねぇんだ?」
「理由なんて、腐るほどあるでしょ?それに、あんたなら解る筈だ」

意味深に放たれた言葉に、政宗の米神を汗が伝い落ちた。

「やっぱり、テメェも……」
「忘れないよ、俺様は。あんたが旦那に何をしたのか。
 よくも好きだなんて言えたね。自分がその手で、俺様の旦那を殺した癖に」

佐助が自分に向ける憎しみの籠った瞳の理由が解った。
やはり、彼にもちゃんと記憶があるのだ。

「テメェも覚えてやがったのか―…」
「そう、ちゃんと覚えてたよ」
「そうかよ……」
「ねえ、また旦那をその手で殺すつもり?
 あんただけは絶対に許さない。旦那を殺しといて好きだなんて、赦さない!」

佐助の手が政宗に伸ばされる。
胸倉を掴み上げると、獰猛な獣に似た瞳で彼は政宗を見た。

「旦那は自分を殺したあんたを受け入れたりしない。
 そして、旦那から離れないとあんたはまたきっと旦那を殺すよ」

怒りを滲ませていた瞳が弧を描き、ニヤリと笑みが浮かべられた。
その瞳に囚われたように政宗は動けなかった。

ジリジリと赤い火がフィルターまで近寄って来ていた。
ジジジと音を立てて火が消え、ぽとりと地面に灰が落ちる。
動けないでいる政宗に笑い掛けると、佐助は校舎の中へ返っていった。

「幸村―…」

ポツリと名前を呟いてみる。誰もいないのだから、当然反応はない。
それが不覚にも最後に腕の中で名前を呼んだ時のことを思い出させて、
胸がギリギリと締め上げられるような痛みを感じた。

空に悲哀が感染したように、ポツリポツリと雨が降り注ぐ。
罰のように全身に雨を受けて佇んでいた。
雫が雨垂れに変わって少しした頃、漸く重い身体を引き摺って
政宗は校舎の中に戻った。

虚ろな瞳でぼんやり廊下を彷徨う。
次の授業は音楽室だったけど、授業に出る気が起きずに宛ても無く廊下を歩く。
女子どもが濡れた自分を見て声を掛けてきたが、答えなかった。
うっとうしい。放っておいてくれ。出かかった言葉を飲み込み、ただ無言で歩いた。

「ま、政宗殿っ!?」

よく知った声が驚いたように自分の名前を呼ぶ。
温度を持った温かな声。反応するつもりがなかったのに自然と身体がそちらを向いた。
大きな目をさらに大きく開いて、驚いた顔で幸村が駆け寄って来る。

「どうなされたっ?濡れておりますぞっ!」

慌てて小走りで寄って来た幸村は、ズボンから出したハンカチで
濡れた貌を丁寧に拭いてくれた。
ふわりと爽やかで、ほんのり甘い幸村の身体の匂いが漂う。
同時に、身体が熱くなった。下半身がズクリと疼くのを感じる。

押し倒したい。犯したい。この手に収めたい―…

醜悪で身勝手な感情が身体を駈けめぐる。
途端に自分が醜い獣の様に思えて、身体が戦慄いた。

「寒いのでござるかっ?」

戦慄を寒さによる震えと勘違いした幸村は
熱いくらいの手でぎゅっと冷え切った自分の手を握り締めてきた。

(だめだ、これ以上触れていたらオレは何をするかわからない―…)

醜くなった右目と同じ。化け物が自分の身に巣食っている気がしてならなかった。

政宗は自分に触れる幸村の細い手首を掴んだ。
驚く幸村を壁に押し付けると、自分の身体を重ねて白い項に噛みつこうとする。

「ちょっ、ま、政宗殿っ!?」

少し怯えたような幸村の声に弾かれ、政宗はハッと我に返った。
少ない通行人がジロジロと自分達を見ている。
ここが職員室の前でなくてよかった。教師が飛んできたりしたら厄介な状況だ。

「Sorry,ぼんやりしていた」
「いえ、大丈夫でござるか?」
「ああ、問題ねぇ。悪かったな、真田」

手渡されたハンカチを突き返し、政宗は逃げるように幸村に背を向けた。
その後を幸村はトタトタと追いかけてきた。
足を止めて彼を振り返ると、自分でも驚く位冷たい声で幸村に告げた。

「オレに付き纏うな、真田幸村」

佐助に操られているのではないだろうか。
そう自分で疑いたくなるくらい、今まで向けたことのない冷たい言葉だった。
急にそう言われた幸村はもっと驚いた貌をしていた。
泣き出しそうな顔をした後、寂しそうに笑って幸村がペコリと頭を下げる。
そして、逃げるように背を向けて走り去ってしまった。

「何を言ってるんだ、オレは―…」

クシャリと前髪を掻き上げ、政宗は壁に沿って廊下に座り込んだ。
窓を激しい雨が叩いていた。











--あとがき----------